岡崎市八帖町(旧八丁村)は旧東海道と矢作川の交わる水陸交通の要所で、大豆や塩を入手しやすく、矢作川の良質な伏流水にも恵まれた味噌造りに適した立地でした。 また、矢作川、乙川などの川が入り組んだ湿気の強い地域に合わせ、水分を減らして保存性を高めた結果、八丁味噌特有の味や香りが生まれたと考えられます。
熟成の際、仕込量6トンに対し約3トンの重石が職人の手によって丁寧に積み上げられます。
木桶全体に均等に圧力が加わるように、なおかつ地震があっても崩れないほどしっかり積めるようになるには、少なくとも10年の経験が必要と言われています。
こうじには、種麹(たねこうじ)と麹、糀(共にこうじ)があります。それぞれどんなものなのでしょう?
(注意)
「麹菌」も「麹」、「糀」もひと口に「こうじ」と呼ばれることが多いので混乱しやすいです。種麹を意味するときは「麹菌」、原料穀物に繁殖したものを表すには「麹」あるいは「糀」と表現します。
「酵素」は基本的にタンパク質で出来ており基質(タンパク質や澱粉など作用を受ける物)に何回作用してもそれ自体は変化しないで触媒の働きをします。麹菌が育成する際に各種の消化酵素という物を体外に分泌しますが、これが大豆のタンパク質や脂肪をアミノ酸や脂肪酸に分解します。仕込む時、カビ自体は死滅しますが酵素は生き続けるので、熟成はその作用を利用して行われます。
八丁味噌は天然醸造で二夏二冬(ふたなつふたふゆ)、2年以上熟成をさせて造ります。
この天然醸造とは大豆、塩以外のものを使用せず(米みその場合は米、大豆、塩のみを使用)、自然の気温変化に任せて熟成をさせる醸造方法のことです。
そのため天然醸造で造ることにより、その地域に特有のお味噌に仕上がります。
温かいと生物活動が盛んになりますが、味噌も同じです。酵素の活性は高まり、風味に貢献する酵母や乳酸菌なども盛んに繁殖します。そこで、気温の低い季節でも味噌を加温してやることにより熟成が早まり、コストを下げることができるため即醸法が広がりました。しかしどうしても風味は単純で、四季の変化を経た天然醸造には及びません。
大豆は四斗(52キロ)ないし五斗(65キロ)入りの俵に入って到着しました。ごみを除去し水洗いしてから水に漬けて水分を含ませ、甑(こしき)という大きな蒸籠(せいろ)に大豆を入れて蒸します。翌朝、大豆を外へ出すとチョコレート色になっており、温度を下げて石臼と杵でつぶしてから手で握り、玉にして蔵の二階に広げて菌(現代でいう「種麹」)を振りかけておくと四日ほどで玉の表面が黄色になります。これを豆麹(まめこうじ)といいます。
味噌造りの時期は新暦の正月休み明けから三、四月までの寒い時期だったので特に寒い日には練炭などを燃やして蔵の空気を暖めました。古い蔵の一階天井が竹で出来ているのは、暖められた空気が二階(麹室)へ届きやすくするためでした。この季節が選ばれたのは寒くて雑菌が繁殖しにくいからです。それと農閑期の農家の労働力が利用できたこともこの時期に味噌造りが行われた理由です。
麹が出来た段階で、これを砕いて塩と水で捏ね(こね)合わせ、大きな仕込み桶へ運び、白足袋を履いた人が桶の中で味噌をよく踏みます。これが「仕込み」です。八丁味噌は水分が少なくて硬いので、中に空気が入ったままにならないよう足で踏み固めました。一杯になると木の蓋をし、その上へ重しに石を積んで熟成します。
昔も今も製造原理は同じですが現在は機械化もされています。