カクキューの当主は代々「早川久右衛門」を襲名しており、名前の「久」の字を四角で囲んだマークが誕生しました。また、そのマークから「角久(カクキュー)」の屋号が誕生しました。
出典元:西尾市岩瀬文庫
嘉永5年(1852)に江戸の役人が書いた「三河美やけ(三河みやげ)」に名物として当社の八丁味噌が紹介されています。これより、幕末には八丁味噌の名はかなり広い範囲に知られていたといえます。
小柳津要人(後の丸善社長)はじめ、岡崎出身の地理学者・志賀重昂、旧岡崎藩主・本多家家職の多門傅十郎らの後押しで、旧岡崎藩主・本多家の忠敬といった人たちの援助を得て明治25年に宮内省への八丁味噌納入の道が開かれました。そしてその品質が認められ九年後の明治34年12月28日正式に御用達の許可を得ました。
「宮内省(庁)御用達」という制度は昭和29年を以て完全になくなりました。当社の場合は五年ごとに交付される商標許可の辞令が昭和21年4月1日付けで最後となり、五年後の昭和26年3月31日で御用達ではなくなりました。しかし、当社にとって宮内省御用達の許可を得たことは、大変名誉なことで、現在でも良い商品を造るための原動力の一つになっていることは間違いありません。
ドレスデン万国衛生博覧会理事会から送られた銅牌
明治44年(1911)ドイツ帝国ドレスデン市で万国衛生博覧会が開かれました。当社も日本政府の命を受け八丁味噌を出品し、三等賞を受け記念牌を贈られました。
同博覧会理事会が最も注目したのは、一ヶ月余にわたる日本からの長い航海、しかもその途中には赤道直下のインド洋を幾日も通らなくてはならなかったのに、八丁味噌の品質に何の異常もみられなかった点です。
当時、ヨーロッパ留学の経験者の話では、日本から送られる味噌がヨーロッパに着くと必ず腐敗、あるいは変味しているということでした。真空包装の八丁味噌が出品されたと考えられていますが、過酷な気候条件にも変質しない、安定した八丁味噌の品質が認められた結果といえます。
このドレスデン万国衛生博覧会への出品で、当社の八丁味噌は初めて世界の舞台へ進出することになりました。
日本学術振興会南極地域学術観測隊の携行食品として、当社の八丁味噌は昭和31年9月、耐暑耐寒試験を受けた結果、優秀と認められ、同年11月の予備観測から昭和37年4月まで毎回使用されました。
事の起こりは岡崎市在住で八丁味噌愛好者の内田慶次弁護士が初期の観測隊長・永田武氏と親しい関係にあり、八丁味噌の優れた耐久性についてお話頂いたことです。昭和37年8月10日付で、当社の積極的協力に対し南極地域観測統合推進本部長・文部大臣荒木萬壽夫氏および日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会会長・茅誠司両氏名の感謝状が授与されました。
また第八次南極観測越冬隊の隊員で豊田市出身の六峰咲年氏は昭和43年5月5日に、当社へブリザードでえぐられた大小二つの「南極の石」を寄贈されました。六峰氏は八丁味噌の愛好者です。感謝状も南極の石も、当社史料館に展示されています。
その後、昭和52年9月に第十九次南極観測隊の食料担当・小池勝男氏から八丁味噌の注文がありました。(愛知教育大学地理教室・仲井豊氏の紹介)
昭和35年3月から7月にかけて、日本山岳連盟主催、東海地区山岳連盟主管、文部省・中部日本新聞社後援で行われたこの登山に、当社は八丁味噌28.88キロを携行食品としてポリ袋包装で提供しました。隊員は伊藤久行隊長はじめ全隊員8人。
このほか八丁味噌は昭和30年11月のマナスル登山隊の携行食品としても用いられています。