1808年(文化5年)~1894年(明治27年)
愛知県豊橋市出身。
合資会社「八丁味噌」カクキューの14代当主早川休右衛門の妻。
歌人で香川景嗣・公阿・佐々木弘綱に師事。
「類題三河歌集」「明治新題余力詠歌集」に入集。
三河の歌人石川千濤の選んだ「三河36人撰」に千代が選ばれている。
又、「こしかたを手にとるばかりうつしみる文こそ世々のかたみなりけれ」が村上忠順編「類題和歌玉藻集」に入集されている。
80歳を記念して歌集「塵泥集(ちりひじ集)」を刊行。
当社に版木が保管されている。
当社史料館入り口にある「早川氏榎の碑」は、千代の夫が遺言し、子の15代当主が建立したものである。
今年(平成27年)発行の「江戸期おんな表現者事典」桂文庫編・柴桂子著に千代が紹介されている。
「早川氏庭榎の碑」
この碑は、現在の岡崎市舳越町の願照寺北方の早川家所有地に建っていました。しかし、戦後の農地改革で早川家がその土地を手放した為、碑は現在の八帖町(旧八丁村)の早川邸へ移されました。願照寺は早川家の檀那寺で、一族の墓が現在も残ります。この碑は早川氏庭榎の碑といわれ、石碑の四方面に碑文が刻まれています。末尾に安政2歳次乙卯暮夏(1855年)渡部幹撰并書とあります。台座の裏面には、裏町石工久四郎錐凹と刻まれています。榎の古樹の頌徳碑で、植物の霊異を讃える大変珍しい碑です。又、早川家の由緒をうかがえる重要な石碑でもあります。
社史「山超え谷超え350年」を参考に碑文を簡単にご紹介します。早川家の祖先は今川氏の家臣で、早川新六郎勝久といいました。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川氏滅亡後、二君に仕える事を望まず三河上野郷舳越村に住み、名を久右衛門と改めました。その時屋敷内に1本の榎を植え愛護した所、木の成長と共に家も栄えました。数代後の子孫が矢作橋の東、八丁村(現所在地)に移りましたが、榎は依然として繁茂していました。里人からは久右衛門榎と呼ばれていました。
しかし弘化2年(1845年)事故もなく突然倒れました。それより以前家運は少し衰退気味でありましたが、木が倒れた後は幸運が再来。家運を盛り返しました。これより考えるに榎の霊が愛護の恩に感じ、主家の危急にその繁栄の福運を捧げたもので、霊木中の霊木であると讃えています。
「塵泥集(ちりひじ集)」の版木
早川 千代
早川氏庭榎の碑
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