1873年(明治6年)~1940年(昭和15年)
愛知県岡崎市出身。文化人。本名 岡田太良次郎。号は撫琴。
岡崎市名門の千賀家に生まれましたが、直ぐに若宮町で醤油製造業を営んでいた岡田家へ養子に入りました。養父は岡崎市の誓願寺内に作った宗偏流の茶室「不蔵庵」の維持に尽力していたので「不蔵庵の息子」と呼ばれました。
近代岡崎を代表する文化人(歌人、書家、陶芸家)で、新聞・文化事業にも尽力し、地方文化の向上に大いに貢献しました。名誉や地位、利益を求めず何人に対しても何ら求めるところがなく、ただ持っているものを与えることに徹し、己の主義に生きたことでも評価されています。
撫琴は岡崎市の俳人・植田石芝の門人であり、1900年(明治33年)に雲雀社から発行された句集「楊雲雀 第二集」夕顔の巻には、鋤雲居石芝宗匠(=植田石芝)撰に撫琴の作品が多く収められています。
また、正岡子規にも影響を受け、伊藤左千夫、高浜虚子ら子規一門とも交流しました。当社には、撫琴の紹介により正岡家、伊藤左千夫の自宅宛に味噌をお送りした明治時代の注文帳も残っています。
撫琴は詩歌・小説にも通じ、野口雨情や若山牧水、中山晋平ら文人墨客と交流し、岡崎に迎え入れました。岡崎初の民謡「釈迦堂踊り」は雨情と晋平により誕生しました。
雨情と撫琴は伝馬町の「深川亭」で度々酒を交わし交流しました。その当時の「深川亭」の年賀状が当社に残されています。
岡崎市東公園、南北亭、世尊寺の企画をしたのも撫琴で、1941年(昭和16年)には東公園に撫琴の句碑「年魚(あゆ)いまだ 膳に上らず ほととぎす」が建立されました。
新聞事業面では、1900年(明治33年)発行の「三河商工新聞」や、1906年(明治39年)発行の日刊「三河」、1924年(大正13年)発行の「三河日報」を手掛けました。日刊「三河」はその後「岡崎朝報」と改題され引継がれました。昭和初期の「岡崎朝報」が当社に残されています。
文化事業面では、1915年(大正4年)に盛大に開催された志賀重昂企画の「家康・忠勝両公三百年祭」で実行面の全てを担当し、紀要を発行しました。また、柴田顕正の大著「岡崎市史」の編集・刊行を推進したことでも知られています。なお、岡崎初代市長の千賀又市とは親交が深く、1922年(大正11年)発行の千賀又市をまとめた「鶴堂遺稿」の校閲も担当しています。
撫琴は晩年「不蔵庵」に入り、楽焼と俳画を楽しみに過ごしました。
当社史料室には岡田撫琴から頂いた手紙やハガキ、岡田撫琴が関わった「句集」「岡崎朝報」「鶴堂遺稿」「岡崎市史」などが残されています。また、昭和初期の当社の「注文帳」「集金帳」には撫琴の名前が多く確認でき、カクキューの八丁味噌を御愛用くださったことが伺えます。
正岡家、伊藤左千夫、植田石芝、志賀重昂について詳しくは「カクキューの八丁味噌を愛した著名人」の「
正岡家」、「
伊藤左千夫」、「
植田石芝」、「
志賀重昂」をご覧ください。
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