カクキューの八丁味噌を愛した著名人

やまもとかなえ
山本鼎

1882年(明治15年)~1946年(昭和21年)愛知県岡崎市出身。版画家。洋画家。教育者。

妻は作家・北原白秋の妹。長男の山本太郎は詩人。
母方の従弟に、村山槐多画家・詩人)、嶺田丘造(官僚)がいます。

1904年(明治37年)与謝野鉄幹主宰の雑誌「明星」に「漁夫」を発表。絵を描き、版を彫り、刷るという一連の作業を1人で行う創作版画を実践し注目を浴びました。

1907年(明治40年)石井柏亭、森田恒友らと美術文芸雑誌「方寸」を創刊し、版画・小説などを発表しました。

1919年(大正8年)長野県上田市で児童自由画教育を提唱。クレヨンとパステルの双方の良さを兼ねた描画材料クレパスの開発にあたり助言を与えました。また農民が農閑期に木彫や刺繍など工芸品を作って売り、生活を安定させるようにと農民美術運動を提唱しました。

長野県上田市立美術館では、版画芸術をさらに発展させ独創性・芸術性を追求した作品を求め、また、若手作家の登竜門となることを目的として「山本鼎版画大賞展」が開催されています。

山本鼎は八丁味噌の愛好家で、大正初期にフランスのパリへ渡った際には入居草々に両親宛てに「八丁味噌を送ってほしい」という内容の手紙を出しています。

鼎は、大きなホタテの貝殻を鍋にしてコンニャクと牛肉、ネギを八丁味噌で煮た寄せ鍋が晩年までの大好物でした。また、八丁味噌を煎餅のように平たくのばして火にあぶり、酒の肴にしました(「山本鼎の手紙」P23参考)。

当社史料室には昭和時代に愛知社から頂いた展覧会の案内状が残されていて「山本鼎」の名前が記載されています。
また、山本鼎の従弟にあたる嶺田丘造から17代早川久右エ門宛に送られた昭和時代の年賀状も保管しています。

  

  

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