カクキューの八丁味噌を愛した著名人

こんどうとうえもん
近藤東右エ門

1846年(弘化3年)~ 1920年(大正9年)
愛知県岡崎市出身。絞油業。
明治20年代の愛知県会議員。米河内村から岡崎市街へ通ずる大沼街道の開発や植林事業を行う。

1912年(明治45年)に愛知県蒲郡市の竹島の対岸に名古屋の実業家・瀧信四郎により旅館「常磐館」が建立されました。「常磐」の名は土地の所有者であった近藤東右エ門が居を構えていた額田郡常磐村大字米河内(現・岡崎市米河内町)に由来しています。東右エ門は「常磐」の名を残す事を条件に瀧信四郎に土地を譲りました。

1922年(大正11年)に発表された菊池寛の小説「火華」を皮切りに、山本有三、川端康成、志賀直哉、三島由紀夫、谷崎潤一郎、与謝野晶子ら著名人が常磐館や蒲郡を訪れ、小説や映画で紹介しました。これにより多くの人が訪れ蒲郡は東海地方随一のリゾート地になりました。
当時、常磐館の名物がカクキューの八丁味噌を使用した「アサリ汁」や「アサリとわけぎのぬたあえ」でした。そのご縁もあって、著名人からの八丁味噌の注文書等が残っています。

1982年(昭和57年)常磐館は老朽化の為に取り壊され跡地には「海辺の文学記念館」が建立されました。入口に設置されたプレートには「常磐苑」と書かれています。


〔近藤家ゆかりの人達〕

~曽我耐軒(そがたいけん)~
1816年(文化13年)~1870年(明治3年)
儒学者。允文館校長。
1854年(安政元年)に一時妻子と共に近藤家に身を寄せながら曽我塾を開き、若い藩士に漢学を講義しました。
1858年(安政5年)近藤家の由緒が書かれた「近藤登助康用故宅碑」が邸宅内に建立されました。
撰文は曽我耐軒です。

~近藤 孝太郎(こんどう こうたろう)~
1897年(明治30年)~1949年(昭和24年)
愛知県岡崎市出身。文化活動家。
柴田顕正の片腕として旧岡崎市史編纂。岡崎文化協会演劇部の中に「葡萄座」を組織。岡崎市立図書館で「第1回岡崎美術展覧会」開催。
近藤孝太郎の歌碑が岡崎市東公園世尊時に建立されています。岡崎市米河内町にある小山の上には近藤家歴代の墳墓が並んでおり、その一角に孝太郎の遺言により作られたゴッホの墓を模した孝太郎の墓があります。

~近藤 鎰郎(こんどう いつろう)~
1924年(大正13年)~2014年(平成26年)
愛知県岡崎市出身。彫刻家。
愛知教育大学教授を長年勤め、後進の指導にあたりました。
(代表作の一部)
●「志賀重昂先生」  (愛知県岡崎市の東公園内)
●「戦災復興之碑」  (愛知県岡崎市の籠田公園内)
●尾崎士郎の文学碑  (愛知県西尾市の尾崎士郎生誕地碑など)

当社史料室には大正時代に近藤東右エ門から、また大正・昭和時代に子息の近藤俊次郎から当主宛に送られた年賀状が残っています。

山本有三川端康成志賀直哉三島由紀夫谷崎潤一郎与謝野晶子柴田顕正志賀重昂尾崎士郎菊池寛について詳しくは当社ホームページの「カクキューの八丁味噌を愛した著名人」の各原稿をご覧ください。

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