生年月日・出身地不明
1990年(平成2年)岡崎地方史研究会発行の「研究紀要第18号」P76に、1921年(大正10年)の青木棟二の名刺が紹介されています。
(雅号)陽山 (住所)中町 (職業)薬・化粧品
1936年(昭和11年)カクキュー宛に頂いた案内状には「中央消防新聞社 青木棟二 岡崎市魚町」とあり新聞社勤務をされていた様です。
岡崎市には古くから浄瑠璃姫と義経の悲恋物語が伝えられ遺跡・遺物と言われる物が多数あります。その一つが岡崎公園入口の東にある浄瑠璃姫供養塔です。
その供養塔の前に、1926年(大正15年)に池上年の設計による墓標柱「浄瑠璃姫之墳(はか)」が建立されました。その玉垣には竹本津太夫、ベルツ花子らと共に青木棟二(=青木春美太夫)の名前があります。また「浄瑠璃姫之墳」側面には発起人として地元の政官財界人や知識人らの名前が刻まれており、早川久右エ門(17代)の名前も確認できます。また、400人余の浄瑠璃姫古墳保存会会員の名前も刻まれております。
この保存運動は全国に注目され、1936年(昭和11年)4月には大阪の「文楽座」から竹本津太夫一門が岡崎にお越しになり人形浄瑠璃を公演し、その入場料全てを保存活動に充てるようにと市に寄付され話題になりました。また公演前日には岡崎公園巽閣で「竹本津太夫師を迎え浄瑠璃姫を偲ぶ座談会」が開催されました。この座談会の広告(新聞)には「発売所 魚町 青木棟二」とあります。
当社史料室には昭和時代に青木棟二からカクキュー宛に送られた松本町「松栄座」の人形浄瑠璃の案内状と招待券が残されています。
浄瑠璃姫関連記事について、詳しくは2024年(令和6年)発行嶋村博氏著「みどりや主人の大正・戦前昭和」をご覧ください。
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